株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
2章は下着業界で起きた変革を主に取り上げています。新素材開発から下着の進化、企業の新規参入、ついには神話まで登場し、それは縫製工場の苦しみの上に成り立っていました。業界内が慌ただしくなる中、ファッションやカルチャーも時を同じくして変革の時期を迎えています。今回は、ファッションが下着に与えた影響を見ていきましょう。
昭和40年(1965年)頃、最先端のファッションがロンドンから誕生している。ヒッピーと呼ばれる若者達によって文化革命が起き、瞬く間に世界中へと広がった。それは音楽、アート、ファッションなどを一新させ、英国人スパイ「ジェームズ・ボンド」の映画「007」や根強い人気を誇るロックバンド「ビートルズ」の登場も丁度同じ時期にあたる。ファッション界では、マリー・クヮントがミニスカートを売り出し「世界を変えたい」「女性を解放したい」という若者達の思想に合致する刺激的なアイテムとなり世界中の注目を集めた。ミニスカートが日本へ伝わったのは昭和41年(1966年)とされているが、本格的なブームは翌年の秋に来日したモデルを目の当たりにしてからとなる。10月18日に日本に降り立ったそのモデルは、本名をレスリー・ホーンビー当時18歳、小枝のように細いという表現の「ツイッギー」の愛称で呼ばれ、少年のようなショートヘア、スリムを越えて細く長い足、小さなヒップはミニスカートのポテンシャルを存分に引き出し、ふくよかな曲線美というそれまでの女性に対する美しさの定義を根底から覆した。デザイナーのマリー・クヮントはミニスカートだけに留まらず、タイツ、靴下、帽子、コスメティック、インテリア小物など幅広く開発を手掛け、女性の生活に深く入り込んだ。髪型ではヴィダル・サスーンの援護を受け、スプレーで固めずとも乾かすだけでスタイルが決まるボブカットとミニスカートの相性が抜群に良かったとされる。
さて、このミニスカートの登場は下着業界にはありがたいものではなかった。ミニスカートは膝上15cm以上のものであり、当時下着業界全体が開発を進めていたガードルとの相性がとにかく悪かったのだ。伸縮性を持つ繊維によって第2の皮膚とされた下着は体形補整という機能を手に入れ、下着が体を覆う面積が大きければ大きいほど補整機能が拡充される。そして当時ガードルは太もも部分まで覆うセミロングタイプ(股下12cm程)やロングタイプ(股下17cm程)を販売していた。これではミニスカートから下着の裾が露わになってしまう。さらにはツイッギーの登場で細身の女性の人気が高まり、世間の流行と下着の進化の方向性に乖離が起き、ガードルの販売促進に大きな打撃を与えた。それまでは下着の開発と市場拡大を止める物は無く、ファッションと切っても切れない関係にある下着に初めて突き付けられた課題となっている。昭和44年(1969年)以降はミディ(ふくらはぎの中間)やマキシ(くるぶしあたり)といったロング丈が流行するため、ガードルが完全に消えてしまう事はなかったが、下着の在り方を考えさせるには十分な出来事であった。現在では補整下着に分類されるブラジャーとガードルの組み合わせではなく、ブラジャーとショーツの組み合わせが一般的になっているのも、ファッションやスタイルの変遷をたどることで頷けるようになる。
マリー・クヮントの言葉に「既存のルールを壊すと力が湧いてくる」というものがある。彼女は1930年に生まれており、ミニスカートのモデルを務めたツイッギーは1949年生まれである。両名とも戦後に生まれており、彼女たちを代表とする若者達が起こした文化革命は、悲しき戦争を引き起こした世代へのアンチテーゼと捉える事も出来る。もしも昔からミニスカートが流行していればまた違ったアイテムやファッションが生まれていたに違いない。既存の物ではない何かを求めて辿り着いたミニスカートの流行は単に派手さや手っ取り早い自由を手に入れるためのものではなく、当時の若者の哲学と情熱が形となって現れた結果であった。
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