株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
ビジネスである以上、利益を出し続けなければならないという現実と常に向き合う事になります。販売価格を高くせずに利益を拡大するためには製造コストやその他費用を抑える必要が出てくるのですが、その傾向が強まれば、どこかに歪みが生まれます。昭和40年頃の下着業界の中でもスーパーをはじめとする量販店向け商品は、製造コストの問題に直面し、一種の限界を越えようとしていました。今回は、安く作る事に翻弄された下着業界の様子を見ていきましょう。
下着業界を含む日本経済が好景気に沸いた高度経済成長は池田内閣によって策定された国民所得倍増計画にはじまり、昭和36年(1961年)から10年間に渡ってその目標値を大きく上回る実績を残している。特に後半の5年間は、いざなぎ景気と呼ばれ、その象徴はエアコン、車、カラーテレビの新・三種の神器の浸透である。所得倍増は働き手にとっては喜ばしい計画ではあるものの、一方で支払う側が追いつかなくなるケースも出てくる。世間ではより良い環境で、より良い給与が支払われる仕事が労働力を惹きつけたのに対して、下着業界では、スーパー向けなど低価格の商品を製造する縫製工場がその立場を危うくしていた。その要因としては人手不足が挙げられる。ミシンが大量にあろうとも動かす人員が不足すれば宝の持ち腐れとなってしまう。都市部の縫製工場はもちろん、下着縫製の中心地であった彦根地区(滋賀県)は京都や大阪など都市部に近く、若い労働力が都会に働きに出るだけでなく、より良い職種にたどり着く傾向が強くなるにつれて縫製に関わる人手不足を加速させた。2章3話の内容で神話が生まれるほど好調な業種であったはずが、何故このような問題が発生してしまったのか。それはスーパーをはじめとする低価格帯の商品を扱う市場に適応し過ぎたために、価格の上限が暗黙の内に設定された上での商売になっていた。一点当たりのコストは上げられない、という事は大量に生産する事で薄利を重ねる事になるが大量に生産するには、まず人手が必要になる、しかし他業種と比べれば魅力的な待遇を用意できないというジレンマに襲われる。そこで縫製工場が出した答えが地方進出である。西日本では北陸や九州へ、東日本では東北地方へと工場を移設して比較的安い賃金での労働力を求めた。一部、高級な商品を縫う工場や、技術的に付加価値のある工場を残して、多くの生産拠点は地方進出の道をたどり、更なる価格競争に飲み込まれていく。これらは工場が移転したケースであり、加工賃を下げる事によって商売の実入りは少なくなるが、雇用や商売の流れが完全に変わる訳ではない。しかし低価格をめぐる競争が激しさを増す中で、より安く作る事を目的とした生産能力の地方進出の流れは国内のみに留まらなかった。
昭和42年頃から韓国での生産が開始され、原材料を日本から輸出し、製造加工された製品を逆輸入する形式で海外生産の関心が高まった。量販店と取引するメーカーの重要課題は価格のメリットを如何に打ち出すかであり、国内では加工賃を下げるために地方へ進出したのだが、それでは他社に対して大きな差を付ける事が難しく、更に安い加工賃で製造できる可能性を秘めていたのが発展途上国であった。また地理的にも近く低賃金で雇用できる若年層が豊富であった韓国が注目され縫製工場の設立が進み、その後台湾やベトナムへ進出する企業も出てくる。当時の日本で安いブラジャーは小売価格280円で販売されていたのだが、例えば香港から製品を輸入する場合のブラジャーで210円の卸値であり採算は合わない。それに対して韓国製造の輸入ブラジャーは卸値100円という安さで供給されたため、量販店向け商品を扱う企業の海外進出は後を絶たなかった。発展途上にある国で衣類の縫製を開始すると、現地で働く人々にとってはかなり利益の見込める商売となり、生産を託す側の利益も確保できるため利害は一致する。そのため技術習得・継承には互いに積極的であり海外製の輸入商品が市場に流れ込むようになった。一方で技術の流出や国内製造では価格面のメリットを出すことが出来なくなる点が懸念され、海外進出に対する慎重派も一定数存在した。しかし然るべき労力と時間をかければ、国内に劣らない製品は完成するようになる。それは一度動き出せばもう止まる事が出来ない。海外での低価格製造という甘い誘惑は、好景気の波に乗っていた繊維業界に対して投げ込まれた禁断の果実となる。
ここまでの話を振り返れば、昭和27年頃の日本はアメリカ向けブラジャーを輸出する側であった(1章6話参照)。アメリカ側の利点は紛れもなく価格面であり、ミシンや縫製技術の投入も惜しみなく行われた。昭和30年代後半には日本で製造するメリットは薄れ、アメリカ向けブラジャーは他の生産地へと進んでいったのだが、そこからわずか数年後に日本も海外で製造しなければ採算が合わないようになっていることが分かる。日本国内での縫製工場移設であれば全体の雇用数はある程度一定に保つことが出来るが、海外の工場を利用すれば国内の仕事量を減らす事になる。また海外と取引するノウハウを国内の縫製工場が持ちあわせるはずもなく、メーカー自身や商社が貿易を行い、力なき国内縫製工場は想定外の苦戦を強いられる事になった。現在では海外製造が至って当たり前になり、弊社業務の実に90%以上が海外製となる。この動きは日本の縫製工場を圧迫する事を知りつつも、私達は安く製造する方法を模索し今日も禁断の果実に手を伸ばしている。
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