株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
下着は不況に強いというお話をご存じでしょうか?昭和40年(1965年)頃の下着業界はそのように表現されていました。ちょうど日本は高度経済成長期に入っており、多くの日本国民が良き時代を謳歌しますが、一方で物価の高騰、人口の都市集中、交通麻痺、更には公害問題などが相次いで起こり手放しで喜べぬ時期となります。更には証券不況による景気後退が主に重工業に連なる分野を飲み込んでいきました。不穏な空気の漂う中、下着業界は総じて不況による影響を受けなかったとされ、これが「不況知らずの業界」という神話を生みました。今回はこの下着業界の神話を紐解いてみましょう。
そもそも下着業界は本当に不況に強いと言える程、目立った業績を挙げていたのか?
「不況知らず」とされた下着業界の神話を捉える上で重要なのは、伸びる繊維ポリウレタン素材の登場による下着の進展である事は間違いない。下着という物が単に覆い隠す目的や、きつく締め付ける道具から脱却し、人体の動きに沿って密着し理想のプロポーションを実現する第2の皮膚へ進化している段階であった。それは同時に、商品自体が発展途上にあり、市場が未成熟であった事を示唆する。完成品だけでなく生地についても柔らかい、薄い、軽い、など次々に新しいものが登場し「とにかく作れば売れる」という時代であったと回想する先人達は多い。それを示すデータとして昭和40年代の下着業界の平均伸長率は前年対比130%が最低ラインという驚異の成長率であったため、不況の影響は下着業界に及ばないとされた。ちなみに成長率130%とは9年後の商売の規模が10倍となる計算だ。これは2021年現在のamazonやAppleの成長を凌ぐか同等の成長推移となる。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで成長する下着事業は、現在の世界を代表するテック企業と同じ目で見られていた。
年間130%の成長を支える生産能力はどのように形成したのか?
かつて日本の縫製工場に規模拡大と技術向上をもたらしたアメリカ向け輸出用品(本ブログ1章6話参照)は、昭和30年後半に日本の輸出規制によってその数を大幅に減らしていた。そこへ日本国内の下着市場の成長が助け舟となる。つまり日本の下着市場の成長と共に生産能力の拡大があった訳では無く、既に育っていた縫製工場を有効に活用する事ができた。アメリカ向け輸出用品の製造に関わった地域としては彦根(滋賀)、横浜や厚木(神奈川)、榛原(静岡)が有名であるが、爆発的成長を続ける下着業界に関しては彦根地区(滋賀)に集中しており、百貨店用と量販店用を一手に引き受け、下着業界にとって彦根地区は欠かせない存在となった。
下着の販売を行う現場ではどのような変化が起きたのか?
高度経済成長とされる昭和30年(1955年)以降、百貨店、専門店に次ぐ第3の市場としてスーパーマーケットが台頭しており(本ブログ1章12話参照)庶民の生活の中心となっている。スーパーの規模は店舗数、扱う品数を増やし、昭和38年(1963年)にはハトヤ、赤のれん、やまと小林、エルピスの4社合併によって「ニチイ」を設立、昭和44年(1969年)には岡田屋、シロ、フタギの3社が合併し「ジャスコ」を設立、また同年に、ほてい屋、西川屋チェーン、タキヒョーの3社が合併し「ユニー」を設立し、大型チェーンストア化が進んだ。スーパーマーケットの躍進は目覚ましく、年商30億を上回る「ビッグストア」が登場し始める。それを象徴する出来事は昭和47年(1972年)スーパーの代表格ダイエーの売上高が百貨店の三越を抜いて小売業のトップに躍り出た事であろう。スーパーでの下着納入において首位を走る「株式会社いずみ」は順調に売り上げを伸ばし年間販売枚数500万枚を超え、当時の下着業界で堂々トップの販売枚数となっている。スーパーでのブラジャーの価格は280円程、百貨店での価格は1500円程であった。下着業界は時の経過と共に移り変わる流通に乗り遅れることなく、深く根を下ろすことが出来たのだ。
衣類の中でも下着が特別不況知らずとされた理由は何か?
ここまでは矛盾なく話が進んだと思うが、新たな疑問が出てくる。例えばセーター、シャツ、ワンピース等、他の衣類も不況知らず神話は成り立つのではないかという点である。その疑問には以下の様に説明できる。まず下着はその存在自体が謎のヴェールに包まれている。第2の皮膚を掲げ裸体を扱う上に、普段の生活で他人の目に触れる事は無い。ボディラインを捉えたカッティングと特殊な工程を含む縫製技術によってプロポーションを整える機能を与え、使用する資材は10種を超える事もある。また日常的に下着について会話する事も避けられるため、何がどうなっているのかを外から知ることは不可能に近い。経済の影響を受けずに伸び続ける下着業界は、解き明かす事の出来ない不思議な分野であり、神話が生まれやすい状況にあった。また、当時は簡単な衣料品については各家庭で作る人々も一定数存在し、雑誌には洋服の型紙が付録され、縫い方を解説するページも掲載されている。昭和40年代に若かりし日を過ごされた方々の家に、用途不明の服のボタンが沢山あるのを見たことがある方は多いと思う。それはコレクションや変わった趣味ではなく、新しい服を作る際に再利用するために保管しておいたものだ。服は自作で間に合わせる事が出来たが、下着はノウハウも解説も出回らないため、店で買う以外の選択肢が無かったと言える。こうして下着はその特有の難しさによって業績を伸ばし不況知らずとされた。
さて、下着業界の神話が広まった時期に人々の記憶に鮮明に残っている出来事と言えば、東京オリンピック開催であろう。それから57年経過して令和3年(2021年)オリンピックは再度東京で開催予定となる。世界的スポーツの祭典は開催を危ぶまれているが、世の中の動向とは別に気になっている事がある。下着の神話は既に終わりを告げたか?それとも将来的に続きがあるのか?
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