下着の歴史編

1章9話.下着の越冬

株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。

1章では日本における下着の黎明期を追いかけています。現代の感覚からすれば違和感のある話ですが、昭和20年~30年前半は冬になると下着は売り場から消え、全く違った商品が並んでいました。それは洋服よりも和服の方が防寒性に優れると思われており、人々の服装は夏に洋服、冬は和服というファッションのリズムが一般的であったからです。現代においては和服の場合でも下着を身に着ける方は多いかもしれませんが、和服と下着が結び付かない時代に、冬をどう乗り越えるのかが下着に関わる事業者共通の悩みでした。今回はその様子を見ていきましょう。


毎年冬が近づくと下着事業者は来春を迎える事が出来るかどうかの瀬戸際に立たされる。理由はどうあれ下着の需要が無くなってしまうのだ。越冬出来なければ事業を諦めるより他は無い、この死活問題をクリアするため与えられた選択肢は、冬眠前の野生動物の様に暖かい内に貯めこんでおくか、下着とは異なった商品を扱うかという2択であった。冬には和装に切り替わるため、クシやカンザシなど和装関係の商品を扱う業者は無事に冬を超える事が出来たが、それではまた次の冬の到来と共に和装へ切り替わり、下着が売れなくなってしまう。下着事業を営むからには年間を通して下着が必要とされなければならない。つまりは、冬でも洋装が受け入れられれば自然と下着は必要となるため、冬に関する懸念はなくなる、そのように考える業者が少しずつ現れる。この問題はどのように避けて通るのか?ではなく、解決しなければならない。冬に洋服を…

欧米では当然のように年間を通して洋服を身に纏う、ファッションの先端をゆくフランスでは下着を介さずウエストの括れを表現できるベルトが流行していた。5センチから8センチ幅の太いゴムを使用したベルトで柔道の黒帯を模した形で親しまれていた。「ジュードー・サンチュール(柔道のベルトの意)」と名付けられ和江商事によって日本で販売されたのが昭和28年(1953年)の秋で記録的大ヒットとなった。ジュードー・サンチュールを購入した女性達はすぐに開封し身に着けるため、商品の包紙が大量に街を舞ったと表現される程一世を風靡した。現在では呼び名こそ受け継がれていないが「太ベルト」として街で度々見かけ、読者ご自身のコーディネートに取り入れる機会もあるのではないだろうか。その起源は2021年現在から約70年前の下着業界にあり、業界が抱えた越冬という問題から見出した解決策なのである。また翌年の冬には、小説家の顔を持ちながら、ファッション雑誌「スタイル」社長であった宇野千代による宣伝によってマフラーとストールが爆発的ヒットなり、冬のファッションの洋装化が一気に加速した。

冬になれば下着が無くなるという表現で話を進めてきたが、正確には秋冬の一年の半分に当たる期間が和服シーズンであった。言い換えるなら洋装を秋冬シーズンに浸透させる事が出来れば市場に対する期待値が2倍に膨らむのである。歴史を振り返る中で、このように聞けば千載一遇のチャンスに違いないと感じ、洋装を促進するべきだと思うかもしれないが、当時の感覚を現代に置き換えれば、夏にスキーウェアを売るようなものであり、一般的感覚から大きく外れていた中での一種の賭けであった。結果的にこの動きは洋装を寒い時期にも流行させたいファッション業界と手を取り合い、互いの文化を押し広める事に成功したのだが、同時に和装文化と和装関係の雑貨を扱う業者を隅へと追いやった。また、目まぐるしく繊維業界の状況が変わり、環境に適応できず越冬出来なかった業者は事業の転換や縮小または撤退を余儀なくされた。後になって歴史を学ぶ者は成功者の姿にどうしても目が行きがちになるが、そこには負けた側、去り行くものが必ず存在する。判官贔屓(ほうがんびいき)をするつもりはないが、後を追う我々はそこから学ばなければならない。自身に向けて何度も繰り返す、戦局は見紛うことなかれ。

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