下着の歴史編

1章6話. 縫製現場のジレンマ

株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。

前回は日本の下着売り場をめぐる争いを振り返りましたが、今回は視点を変えて製造現場に着目します。下着が日本で広まり始めた頃は、多くの人にとって使ったことのない商品を扱うために、販売だけでなく製造についても試行錯誤を繰り返す状態でスタートを切っています。縫製工場では、あるオーダーを契機に環境と技術が向上し、供給を司る製造業の技術が、需要を示す市場の発展よりも先んじて大きく成長します。一時期はバランスを崩すほどに乖離しますが、その後下着の隆盛によって現代の市場が構築されていきます。今回は売り手とはまた違った作り手の当時の環境を詳しく見ると共にその経過を見ていきましょう。


日本の戦後の繊維業界の中でも縫製工場の立ち回りは大きく二つに分ける事ができる。一つは日本国内を対象とした新しい市場への展開で、未知の可能性を秘めた事業となる。しかしながら昭和26年(1951年)7月までは繊維製品はGHQによって統制されており、生地の使用量や種類は少ない範囲に限定されており、事業規模としては大きくないものであった。国内の需要についても芽が出始めた時期であるために、ミシン10台程を並べ1日数十枚程度の生産規模であったが国内の需要は充分埋める事が出来ていた。

もう一つはアメリカ向け輸出商品の製造で、日本国内のようなまだ見ぬ市場への挑戦とは異なり、既に成熟し安定的で、扱う資材類は制限なく調達され、物量もかなり大規模なものであった。同じ日本国内にある工場でも、売り先(商売相手)によって手に入れられる材料が異なっていたのも両者を隔てた特徴の一つと言える。

縫製工場からすれば、多くの品目を限られた枚数製造するよりも、同じ品目を継続的に生産する方が効率的である。その事を考慮すると、輸出用品は決められた品目を大量に生産する事が出来たため、工場運営の観点から非常に理想的なオーダーとなった。輸出用として生産された品目は、テーブルクロスやベッドカバー、カーテンなど縫製技術としては比較的容易な生活雑貨から始まり、ブラウスなどの衣類も扱った。

その後、日本での縫製技術の向上と安定が約束され始めた昭和27年(1952年)頃、アメリカのエクスキュージット・フォーム社、ベスト・フォーム社、メイドン・フォーム社から日本に下着のオーダーがやってくる。当時のアメリカでは既に労働賃金が高騰しており、コストダウンを目的として、人件費の安い生産拠点の開発が優先課題であった。アメリカから舞い込んだ輸出用のオーダーは、工場一件あたりミシン600台、従業員500名を要する規模への拡大を迫られるほど大きなものであり、一回で数千ダース(数十万枚規模)の受注は一つの工場では対応できず、神奈川県の横浜や厚木、静岡県の榛原、滋賀県の彦根など、広域に渡って工場が名乗りを上げ、輸出用下着の製造に参入した。

莫大な量を生産する輸出用品の製造については、どの工場にとっても魅力的なものであり、安定的で効率の良い受注が約束されているが、同時に日本国内用の製造を片手間で受け持つ余裕はなくなる。国内の事業者全てが輸出品を製造すれば、日本の繊維業界の発展を担う製造業者はいなくなってしまう事を意味していた。ましてや輸出先は戦争の相手であった記憶も新しい、しかし欧米文化が輝いて見えるのもまた事実。縫製工場は商売としての実利を追うか、日本人としての美徳を取るのかという特別な感情の間で揺れ、それぞれに考えを異にしていった。

さて、輸出用品生産に関わる工場にはミシンの数だけで考えてもざっと60倍となる設備が必要になり、資金面で大きな問題として立ちはだかるはずであったのだが、アメリカの企業は、輸出用下着を生産する日本の工場のために当時の日本では入手困難な二本針本縫いなどの最新鋭の縫製機器を含め必要な設備を投入し、更に縫製を担当する工員に対する指導を充実させるべく技術者をアメリカから出張させ、ライン製造など本格的な大量生産体制を導入した。更なる利点としては、型紙についてもアメリカから取り寄せられており、保存に優れたジュラルミン製で変形などの心配が無く、ブラジャーに関しては全12サイズが工場へ持ち込まれた。これを基にカップの大きさが異なるブラジャーの製造が可能になり、昭和29年以降、日本国内向けにカップとアンダーバストの異なる現代の物に近いブラジャーサイズ展開が導入されることとなる。また、完成させた商品は全て引き取ってくれるという約束付きだったため、輸出下着を製造する工場にとっては、これ以上ない好条件となり事業として潤った。アメリカの企業としても安い価格で高品質なものが作れるため、その勢いは時間と共に増してゆく。

ところが昭和32年(1957年)頃、日本から輸出される製品に規制がかかり始める。アメリカで安い輸入品が売れ過ぎたために、日本側の輸出自主規制を強いられる形で幕引きとなった。規制が入った後は、ストラップが付いていない状態や、ゴムが縫われていない状態の、いわゆる半製品の状態での輸出となり、アメリカに納入された後は、現地で完成品に加工する手間と時間、更に費用を要するため価格面のメリットが希薄になり、生産拠点を香港等その他地域へ移していった。残された日本の下着工場は大量の工員を抱え規模の縮小を迫られたが、縫製技術や型紙、最新鋭の機材は回収されずに手元に残った。その後はこれを有効に活用し、国内向けの市場と海外輸出向けの技術を掛け合わせて、製品のクオリティを上げ、効率的な生産体制を構築しその後の成長へ繋げてゆく。

下着の黎明期において、アメリカのオーダーを取り込んだという事は、縫製業全体を通して見た場合、アメリカでの雇用を奪い、それを日本に置き換えたという事ができる。そして月日の経過とともに日本から離れた後、そのオーダー(雇用)がアメリカへ戻ることはない。資本主義という過酷な競争社会の中では当然という見解も一理ある、同じものが安く作れるのであれば、誰もがそれを求める。現代においては、日本にも安く製造された海外製の商品が並ぶと同時に、日本の縫製業は大きな悲鳴をあげているが、それも資本主義の前では空しく響くだけで、オーダーが日本に戻ってくることは無いだろう。今後もコスト優先の物作りに拍車がかかり続けるならば、次なるコストカットの対象はクリエイティブな領域を受け持つ、企画、設計、開発部門となるだろう、明日は我が身か。

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