株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
本ブログ1章では下着の黎明期にスポットを当てています。これまでに登場した、コルセット、ブラジャーは下着の中でも「ファンデーション」に分類され一般にはおよそ聞き馴染みの薄い言葉かもしれませんが、その他にはガードル、ボディースーツ、シェイパー等があります。もう一つの下着としては「ランジェリー」というものがあり、こちらの言葉は耳にする機会が比較的多いかもしれません。「ランジェリーショップ」と聞けば「下着屋さん」とイメージしやすいのではないでしょうか?両者の詳しい分類と違いについては別の機会に解説しますが、もう一つの下着「ランジェリー」が日本でどのようなスタートを切ったのかを見ていきましょう。
昭和20年(1945年)以降に下着の一般への広い普及と発展が確認できるようになるが、それは洋装文化の広まりによって下着が必要となった事が大きく影響しており、そして洋装に限らず多くの欧米文化はGHQ(進駐軍)によって持ち込まれた。その一例として日本に駐留する連合国軍(主にアメリカ兵)のために生活物資を取り扱うPX(Post Exchange)という売店が設置されており、アメリカの衣料品、食品、雑貨などを並べ、その中に婦人用の洋装と下着の販売もあったようである。基本的にGHQの関係者以外の利用は出来なかったが、PXで流通する商品の一部が一般の日本人へ譲られたり、中古品として流れてくるケースもあり、新しい商売の機会を伺う日本人にとっては貴重な情報源となり、下着に関しては実際の商品や雑誌のグラビアなど頼りにその糸口を掴んでいった。
昭和24年(1949年)頃、靴下を中心に扱う「内外編物株式会社」の新規事業を担当する事になった塘和夫は、自社の編み機を使った新しい繊維商品が出来ないかと案を巡らせているある日、洋装に身を包んだ日本女性が手に持っていたアメリカの雑誌が気になった。その中にはスリップ、パンティ、ペチコートなどが載っており、それらは「ランジェリー」という下着であることが分かり、編物を扱う企業にとって探し求めていた新しい商品そのものであった。その後PXで扱われていたトリコット(経編の生地)を使ったパンティを手に入れ数年に渡り研究を重ね販売に至った。当時の認識を確認しておくと、「下着」という言葉は一般的でなく、今でいうところのアウター(外着)の下に着る衣類はまとめて「肌着」と呼んでおり、ランニング、ズロースが主流であった。そこへ登場した現代風のパンティはかなりセンセーショナルであったために「いやらしいモノ」という印象が強く物議をかもした。※パンティはランジェリーに分類される場合と異なる場合がありますが、このブログではランジェリーに分類します。
次いで登場するランジェリーはスリップで昭和26年(1951年)頃に、大同布帛によって製造、販売された。肌着と外着の狭間に位置していたシュミーズが下着寄りに進化したのがスリップである。初期のスリップはレーヨンの織物であったが、昭和29年(1954年)に東洋紡績(現:東洋紡)のレーヨントリコットを使用したスリップを発売しヒット商品となった。スリップの主な用途は服の滑りを良くし、皮膚と服が擦れたり、汗で服が汚れたりする事を防ぐ役割が大きい、後の進化としてキャミソールへ繋がる。
その後昭和31年(1956年)に発表された、旭化成の新繊維ベンベルグ(キュプラ)によってランジェリーは一気に本格化する。ベンベルグの特徴は繊維一本一本の丸さにあり、他の繊維に比べて断面図が円に極めて近いため、皮膚への刺激が少なく、その肌さわりは絹に近いとされ、また天然素材のため土に還す事ができる。キュプラの名称でも有名なこの繊維は紳士服の裏地のイメージが定着しているが、登場して間もない頃は下着用の素材として売り出されスリップやパンティに積極的に使用された。その後下着のシーンに選択される機会は減っているが、現在ではユニクロのAIRism(女性用のみ)に採用されている。
ブラジャーやコルセットを始めとする「ファンデーション」よりも少し遅れて登場したもう一つの下着「ランジェリー」に関して特筆すべき点は、その完成の早さである。パンティ、スリップ等は登場以来大きく形を変えておらず、その種類も安定しており現代にそのまま受け継がれている。素材や縫製のレベルが上がったことによるパフォーマンスの向上は当然ながら、ランジェリーとしての基本的な要件は登場から数年で満たされている。この完成の早さは、「ランジェリー」が単に簡単な商品である事を示唆するのではなく、関係した事業者全てが、下着を通じて人々の生活を豊かで快適にしようと努力重ねた結果である。
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