株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
前回は下着のカラー、デザイン、着用感が重要だと申し上げましたが、そこに加えて価格も非常に重要なポイントですね。お安く提供出来る事はいつの世も大いに受け入れられますが、その裏には大きな企業努力と市場の変革があります。今回は下着の黎明期における百貨店や専門店に次ぐ新たな市場の形成と価格の変化を見ていきましょう。
「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年代(1955年)からは高度経済成長の波に乗り、年間10%の経済発展を遂げ、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電3品目が3種の神器として世間を沸かせた頃、下着はブームを迎える。それは新たな流通形態として経済の急激な成長を支えるスーパーマーケット(以下、スーパー)の登場による功績が大きい。今では私達の生活に深く根差しているスーパーの特徴はセルフサービスの採用であり、それまでの習慣によれば肉は肉屋、野菜は八百屋にそれぞれ出向き、店主と会話しながら献立を決めるといった、ある種のプレッシャーからの解放となり、店頭に並べられた商品を自ら選んでカゴに入れてまとめてお会計する、当時としては画期的な販売(経営)方法であった。新たな市場に次なる商機を見つけ展開したスーパーとしては、ダイエー、岡田屋、イズミヤ、イトーヨーカドーなどが昭和32年(1958年)~昭和35年(1960年)頃までに相次いで参入している。スーパーの出現は小売業自体に大きな刺激をあたえ、東横百貨店(現、東急百貨店)による東光ストア、西武百貨店による西武ストア(現、西友)を代表とする百貨店系スーパーも登場し、食品だけでなく、下着を含む衣類や生活雑貨を扱う総合スーパーへ繋がり第3の市場として人々の暮らしに定着する。
さて、スーパーは安さを売りにし大量に販売する戦略を取るため、その特徴にフィットする納入業者が必要となる。下着に関しては和江商事や半沢商店などが主流派として百貨店の売り場を席巻していたが、安さで勝負するスーパーへの納入は高級ブランドのイメージと折り合いが付かなかった。第3の市場は主流派が手を出すことの出来ないセーフゾーンとして、新たな納入業者の成長を促すことになる。
スーパーが一般市民の信頼を獲得していた頃、半沢商店の京都店長を務めた小泉市郎は独立して下着を製造する「株式会社いずみ」を設立していた。元半沢商店の関係者であるという遠慮から百貨店や専門店に出入りする事は避けていたのだが、新たな商売を模索する中、半沢商店で培った営業力と確かな縫製技術を持つ縫製工場の協力を受け、スーパーへの下着納入業者としての地位を確立してゆく。ある時には現金で取引してくれるスーパーに助けられ、ある時には薬や食品中心のスーパーに下着売り場を開設してもらい、衣料品を扱うスーパーが増えた時期には各社から納入依頼を獲得するなど、「ブラジャーなら、いずみ」と言われるほど業界内で有名になった。
スーパーでは前述の通り、ありとあらゆるものが安く買えるのだが、食品であれば、百貨店や専門店または路面店の半額から1/3の値段で購入できたというのだから、一般消費者の生活を変えたのにも納得がいく。当時スーパーに並んだブラジャーがいくらで販売されたのかについては調査が及ばなかったが、食品と同じような価格設定が可能であったと仮定した場合、百貨店や専門店で売られたブラジャーが300円~で販売されているので、スーパーでは100円あるいは150円で下着が購入できた計算となる(昭和35年都市部勤労世帯平均月収¥35,000-~40,000-)。
経済発展によって収入は年を重ねる毎に増え、スーパーの出現によってモノは安く提供された。少しの贅沢、少しの楽しみが多くの人に広まり、今まで実感する事の少なかった余裕は新たな消費へと繋がる。第3の市場の出現は家計を守る主婦の支持を獲得し、婦人下着は誰もが手に取れるまでに普及し本格的な下着のブームとなった。
今回登場した「株式会社いずみ」の社長について少し触れておくと、本ブログ1章2話の「ブラ・パット」にも深いかかわりを持つ。和江商事が三越百貨店へ「ブラ・パット」を納める際に、『直接取引には至らず、京都の業者と半沢商店を通じて納品する形になった』と記している、この京都の業者というのが後に半沢商店に勤め独立し、第3の市場を席巻する「株式会社いずみ」社長となる小泉市朗なのである。
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