下着の歴史編

0章4話.揺れた大正時代の軌跡

株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。

15年という日本史上最も短い時代区分の大正では、明治末期から相次ぐ戦争への参加、景気の乱高下など日本は揺れに揺れました。欧米列強の仲間入りは夢の話では無くなり、世界各国と互角に渡り合う事で手に入れたものは何だったのでしょう?また何を失ったのでしょうか?衣・食・住など生活はどう変化したのでしょうか?それでは見ていきましょう。


大正時代(1912年-)には女性解放運動が大きく叫ばれ、バスガール、カフェの給仕、美容師、デパートの店員、エレベーター嬢、女工、芸者等、働く女性を中心に洋装が普及しはじめる。女性が金銭を受ける形での労働が非難や偏見を受けた時代から一転、社会的に無視できないその存在は職業婦人と呼ばれた。文化面では女性歌手、ジャズ、映画、宝塚歌劇団が生まれ大衆文化として現代にも受け継がれ、食文化ではカレーライス、コロッケ、とんかつなど洋食が広まることで日本人女性の身長は高くなり、全体的にふくよかな体つきに変化する。一般庶民の生活は、もはや西洋化という目標を超えて、一気に近代化したと捉える事ができる。女性が洋服を手にする機会が徐々に増えていったが、下着については和装の腰巻というアンバランスな時代となる。現代のブラジャーの形に近いものが1914年(大正3年)にアメリカで発明され特許登録されていることから、大正の日本にブラジャーがもたらされていない事は当然といえば当然の話ではある。大正末期においても西洋下着の普及はズロース、シュミーズの範囲に留まり、和洋折衷が長らく続く。女性下着の分野では遅れを取る日本ではあるが、明治末期からの日清・日露戦争において勝利し、特に軍事に関するような工業では既に世界と肩を並べる生産能力と地位を築いており、続く第1次世界大戦(1914年-)では戦地となった欧州への物資の貿易で工業と並んで紡績、繊維などが空前の好景気となった。さて、女性の社会進出を中心に見れば権利や活躍の場を勝ち取った形に見える一方で、戦地に多くの男性を取られ、且つ徴兵に取られる期間に男手が減る事で女性が世に出ざるを得なかった側面もある、必要に駆られ働きに出る他に選択肢が無かったと解釈できなくもない。これは欧州にしても同様であり、この時期の世界的な女性の社会進出は戦争という悲しみと共に近代化の礎となった。第1次の終戦後(-1918年)は、貿易の生産向上に関係する設備投資や行く宛を失った在庫の滞留が景気を後退させ、日本全体に不穏な空気が漂う大正12年(1923年)に追い打ちをかけるように関東大震災が襲いかかる。関東一帯を壊滅させ多くの死傷者を出したこの災害は、復興を通じて、ビルの建築や道路拡張、区画整備を進め、街並みの近代化をもたらした。震災時に足さばきの悪い着物で逃げ惑う女性の多くは震災による火災から逃げ遅れたため、動きやすいスカートやズボンに注目が集まり、改めて洋装の必要性を考えるきっかけとなった。また「外出時にはズロースを」という声があがり、洋装や下着が徐々に世間に浸透してゆく気配を見せる。その例が「モダンガール」と呼ばれる当時の流行を捉えた若い女性達である。

1928年(昭和3年)撮影 モダンガール Wikipediaより転載 

クロッシェ帽、短い髪、自然な化粧、香水を好み、アッパッパと呼ばれたワンピース、ロングスカートやラッパズボンの装いで街を闊歩した。それが単に新しいモノ好きだったのであれば、その後廃れたはずであるが、昭和、平成を経た現代でもモダンガール達は眩しく映る。そして彼女たちは未だ現代下着を知らない。「たら・れば」の話ではあるが、現代下着がこの時代に完成していたら、モダンガールのお眼鏡には叶うのだろうか。この当時に遡り、現代下着を提供出来るのであれば、時代の最先端を行く彼女たちに必要としていただける下着の企画・設計・開発にチャレンジしてみたい。

当ブログ大正時代の簡易年表

  • 1912年:大正元年
  • 1914年:大正3年 アメリカで現行に近いブラジャーの特許申請
  • 同年 宝塚歌劇団初演
  • 同年 第一次世界大戦勃発 貿易で好景気
  • 1918年:大正7年 第一次世界大戦終結 その後景気は低迷
  • 1919年:大正8年頃 職業婦人が広く一般化される
  • 1923年:大正12年 関東大震災 ズロースなど下着の着用を呼びかけ
  • 192x年:モダンガール、モダンボーイの登場「モガ・モボ」と言われる 時期詳細不明
  • 1926年:昭和元年

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