株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
明治から西洋文化を取り入れ始めた日本ですが、一般化にはかなり時間と労力をかけています。それはなぜでしょう?何かが西洋化を妨げていたのでしょうか?国や政治とは異なる一般生活では何が起きていたのでしょうか?それでは見ていきましょう。
明治は、文明開化、欧米列強など端に西洋化を進めた時代ではあるが、日本は江戸時代から引き継いだ男性と女性に対する扱いの違いが色濃く残っていた。それは服装にも強く表れており、男性の洋装が「開化服」として明治5年頃から始まっていたのに対し、女性の洋装は明治19年(1886年)頃に明治天皇皇后が「婦女服制の思召書」の公布を以って男性と比べ10年以上遅れて奨励される。それよって、官員婦女子、富裕層、女学生が西洋式の服装を着用するようになるが、あくまで推奨されたという程度に留まり、日本家屋や生活様式に合わないクリノリンドレス等はミスマッチと言わざるを得ず、西洋の服は大変高価であったため、一般に普及させるために越えなければならないハードルは多かった。ちなみにクリノリンドレスの値段は40円から60円程であり、一般市民の生活費が7円から8円程度であった事を令和2年現在の価格に置き換えると、91万円から120万円の服を国が推奨しているイメージである(一カ月の生活費を16万とした場合の計算)。一般市民の普段着とはかけ離れた物ではあったが世間から認識され始めた西洋の服装は、「洋服」と呼ばれ、それは同時に「和服」というレトロニムを生んだ。一方、明治18年(1885年)頃に大日本婦人結髪改良束髪会からこれまでの結髪(日本髪)について指摘があり、女性生活の近代化に大きな役割を果たしている。以下指摘内容を現代語訳
- 指摘その1、日本髪は不便で窮屈で苦痛 (首が痛い)
- 指摘その2、月に数回しか頭を洗わないので衛生上の害がある (臭うし痒い)
- 指摘その3、洗った後は毎回結ってもらうお金がかかる (負担が大きい)
この指摘は大いに受け入れられ、女性達は手間とお金のかかる結髪をやめて、経済的で香油を使って手軽に整えられる束髪を選んでいった。それは都市から地方へ及び、明治末期には全国的に洋風の束髪が主流になり今で言うヘアアレンジも豊富で変化を付けている。明治の女性と大正や昭和の女性を検索すれば髪形の差は文字で語るより分かりやすく、服装の変化と同様大きな変化を遂げている。髪型の西洋化と服装の西洋化が関係すると考えられる理由としては、和服は羽織って着るタイプ:寛衣型(かんいがた)前開き服形式であり、髪形を大きく膨らませても着脱に問題がないのに対し、洋服の上着についてはシャツやトレーナーのように頭から被って着るタイプ:窄衣型(さくいがた)密着服形式を主とするスタイルへ発展していくため、結髪の女性に適さなかったのではないか。それが束ねるだけで済むのであれば、洋服も気軽に着られるようになる。日本女性の髪型の変化が明治以降の西洋化を加速させる要因ではないだろうか。
明治中期から末期にかけては、外国との戦争へ突入し洋服や下着の進歩は陰に潜んでしまうが、おしゃれという観点でみれば、髪型を通じて自由や多様への種は確実に蒔かれていた。それが国の文明開化という思惑であろうとも、確実に女性に対する権利や社会進出への理解は一歩一歩進み、明治の人々が掲げた西洋化はついに女性の社会意識を目覚めさせ、大正時代へ向かう。
当ブログ明治時代の簡易年表
- 1881年:明治4年から14年頃 岩倉使節団 日本女性初の留学生
- 1883年:明治16年から23年頃 鹿鳴館 大山捨松の活躍
- 1885年:明治18年頃 大日本婦人結髪改良束髪会から日本髪への指摘
- 1886年:明治19年頃 明治天皇皇后によって「洋装奨励思召書」
- 1894年:明治27年から28年頃 日清戦争
- 1900年:明治33年頃 津田梅子が女子英学塾を設立(後の津田塾大学)
- 1904年:明治37年から38年頃 日露戦争
- 1912年:大正元年
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