株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
昭和40年頃から新しい世代によって世界は大きく変わったとされています。確かに当時の大人達が作り上げた常識はどこか堅苦しく、居心地の良い環境とは言えなかったのかもしれません。下着に関して言えば、グラマラスな体形へ補整する方向へ進んでいたのですが、若い世代には受け入れられませんでした。よって柔軟な発想と対応を迫られるわけですが、時に過激な行動に出た若者達を、単なる変わり者と切り捨てず新しい物を提案した下着業界はリスペクトされるべきでしょう。今回は、新しさの中で生まれた下着のカラーについての振り返り、現在では極一般的な色が誕生した瞬間を見ていきましょう。
前話で取り上げたノーブラ・ムーブメントは結果的に見れば一時的な話題となった程度で、ファッションの主流派に取って代る事は無かった。しかしながらヒッピーと呼ばれた若い世代が掲げる本来の目的である自然回帰や禁止への抵抗は衰える事なく勢いを増し、新しい時代を呼び込む運動として世界中で広がりを見せた。昭和45年(1970年)欧米の下着業界では新しい世代への提案として、ボディラインを強調したり、締め付けの強い補整下着とは異なる製品の開発が急がれた。これらはあくまでも若い世代へ向けた提案であり、親世代とは違った価値観を持つ若い世代には、柔らかく、軽く、透けている下着が受け入れられ、下着の色はスキントーン、ヌードカラー、つまりベージュカラーの割合が高くなりはじめた。
当時の前衛的なブラジャーの資料を確認すると、胸に当てられている目の荒いネット調の生地が透けて乳房全体が見えており、文字度通りシースルーで補整機能は無い。こうした下着は西ドイツのケルン市で開催された「国際ランジェリー・フェア」で発表されている。新しい時代の開拓者であるはずのアメリカではなく、伝統と歴史を重んじるヨーロッパで変革が起きた事が、誰もの予想を覆している。また、補整感を取り払っている事が原因なのか、ソフトなブラジャーは前述の通り「ランジェリー・フェア」で発表されている事も興味深い。現在の認識を借りればブラジャーは、補整機能を付与しているファンデーショングループに分類される。対してランジェリーは外着の滑りを良くする目的があり、吸汗など外着へのダメージを防止する役割となる。ファンデーションとランジェリーはそもそも定義が異なる下着ではあるものの、この垣根を越えて新しく発表されたブラジャーはあえて「ランジェリー」を発表する場所でのデビューを飾っている。
日本では、ヨーロッパから少し遅れた昭和47年(1972年)からベージュカラーの下着が注目を集める事になる。振り返れば、色の付いた下着は過去に鴨居洋子によって発表された下着に7色のカラーリングが施されているが、それらの下着を扱う販売店や販売数は少なく、白の下着が当然の様に店舗に陳列されていた。ベージュカラーの流行はファッションの推移と密接なかかわりを持つ。まずファッションの変遷を振り返ると、昭和41年(1966年)年にミニスカートが流行して以降は、短い丈とは逆の方向に位置するミディー丈やマキシ丈が追随し、ホットパンツ、パンタロンなど新しいファッションが次々に登場して流行している。これら新しい衣類の共通点は若い世代を中心に広がりを見せた点と、比較的体のラインが分かりやすい物であったという点だ。特に薄い色の服を着る場合、白い下着は透けて見えしまうため、ファッションアイテムのポテンシャルを引き出すというよりは、むしろ恥ずかしさに繋がりスタイリッシュとは言い難かった。ベージュカラーの下着はそうした問題を解決するアイテムとして一気に普及した。
この頃の外着をはじめとする衣類については、既に豊富なカラーが展開されているが、下着には多くの選択肢が与えられていない。ベージュカラーが受け入れられた事によって少しずつカラー展開が本格的になってくるが、生地の染色の段階でクリアしなければならない下着特有の問題があった。少しこの問題を紐解いてみよう。まず、下着は異なる素材を多く使用する。ブラジャーを例に上げれば、ストラップ、カップの表レース、カップの中布、カップ肌布、バックに使用する生地など、一般的な物でも10種類以上の素材を使用する。これらは全て異なる特徴を持つだけでなく染まり方も異なる。同じ条件や手順で同じ色に仕上がる事はなく、染料、時間、温度それぞれに管理しながら染め、同じ色に染まったかどうか確認が必要となる。この染色の難易度は非常に高く何度もやり直す事になるが、その度に人が入るほどの大きさの釜を毎回綺麗に洗わなければならない。当時は染色に関する経験値が少なく、手探りで染色技術を高めなければならなかった。現在ではノウハウが蓄積されているため染色について軽視されがちであるが、多くの種類の異なる素材を同じ色に染める下着と、素材の統一が比較的容易とされる、その他衣類とを分ける要因の一つであると言える。
日本で先陣を切ってベージュカラーに挑戦したのは株式会社カドリールニシダであったとされている。染工場の協力を受け、幾度となく染め上がった素材を確認し商品を提案して回り、エトワール海渡での取り扱いを取り付けた。その結果白い下着が一夜にして消えたと言われた程の勢いで下着の色を変えてしまった。
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