株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
昭和40年代に入ると戦争を知らない新しい世代が既存の文化から抜け出し、より豊かな暮らしを求めて声を上げ始めました。既存のルールを壊す、そんな活動が世界中で躍動している中、ある企業が下着専門の製造業として創業しています。今回は、既存のモノ作りに疑問を投げかけた、その企業のストーリーを見ていきましょう。
昭和43年(1968年)明確なビジョンを持ち下着に情熱を注ぎ続ける会社が創業する。当時、株式会社設立に必要な資本金1,000万円を準備できず、友人知人から集めた200万円を元手にスタートを切っている。社長となったのは2章4話で取り上げた西田氏である。高校卒業後すぐに入社したワコールを飛び出し繊維業界ではない外の世界も経験した。その後は株式会社ルシアンFGの陣頭指揮をとったが、比較的安価な商品を大量に扱う事で利益を重ねる会社の経営方針とは異なる視点を持っていた。自分の理想に燃え、オリジナルでいい商品を作りたいと。モノ作りに深く関わると、予算や納期など通常避けては通れない数々の障壁を取り払って理想的な商品を開発したいという欲求に駆られる瞬間は確かにある。頭の中、または理論上では独自性を持ち斬新なアイデアが次々に浮かぶが、多くの場合は現実とのバランスを取りきれず妄想に終わる。品質、デザイン、素材に拘ると確かに良い製品が出来上がる可能性はある。しかし成功するか否かの問題よりも前にコストが膨れ上がることは確定しており、企業としてはその資金をどう回収するのかという話に着地する。最悪の場合回収の目途が立たなくなる事すら考えなくてはならない。企業は技術者だけで成り立つ訳ではなく、その分母が大きくなれば社員とその家族を支え続けなければならない。企業に属する事による制約が手かせ足かせとなるならば、残された道は独立して己の足で立つ以外にはない。西田氏の独立は自然な流れであった。
下着専門の製造卸売業として始まった西田氏の会社は創業の翌年に発起人3人の協力を得て、個人事業から株式会社に変更。会社名はフランスの伝統で4人1組になって踊る「カドリール(英語読み)」に西田氏の「ニシダ」を加えた「カドリールニシダ(以下カドリール)」となった。
会社設立当時は、ワコール時代から良い関係を続けていた東京の総合卸商社エトワール海渡との取引を始める事ができた。エトワール海渡の専務との関係は非常に良好で、提案するサンプルは余すことなく受注に繋がった。提案したサンプルが良質なものであったのは言うまでもない。また納品してから入金までのサイクルが短く、設立したばかりの資金繰りの厳しい企業にとってはありがたい得意先であった。それだけでなく、カドリールに多額の費用が必要になった際には、将来的に納品する約束の下に、エトワール海渡の専務の一存で費用を全て工面してくれた。この時の金額分を納品するのに2年かかるほどの金額であったという。その後もエトワール海渡との取引は拡大し、エトワール海渡の当時のテレビCMには常にカドリールの収めた商品が登場した。
カドリールにとって初めての大口取引先は、内外編物株式会社(現、株式会社ナイガイ、以下内外編物)となる。ランジェリーで成功を収め、アメリカ、カイザー社と提携してソフトなガードルを販売していた内外編物はブラジャーの取り扱いを計画していた。当時の内外編物は衣料品関係では日本一と言っていいほどの事業規模で、カドリールとは比べ物にならない程のビッグカンパニーとして君臨していた。西田氏の下着に懸ける情熱が内外編物の社長の信用を勝ち取り、取引が開始された昭和48年(1973年)以降、ファンデーション製品は100%カドリールが納める事になった。
それから4年後の昭和52年(1977年)日本IFG株式会社(現、トリンプ・インターナショナル・ガーメント株式会社、以下日本IFG)との取引が開始される。こちらは世界最大規模にして、下着の本家本流であるヨーロッパからの刺客であり、同社から見た日本の下着は所詮、欧米文化の真似事に過ぎず、日本企画・日本製造の代物については懐疑的であったのだが、そこへカドリールが挑戦する事になる。当時日本IFGが扱っていた商品はブラジャーとガードルそれにショーツのみで、ファンデーショングループがメインであったが、ランジェリーについては手薄な状態で、日本で下着業界のリーダーカンパニーであるワコールとの差を埋めるため、ランジェリーを展開する事で形勢逆転を狙っていた。カドリールが最初に提案したランジェリーのサンプルはイタリアブランドの盗用だと指摘されるが、当然オリジナルである。10日後に別のサンプルを新しく5点作り持ち込み、日本にも優れたモノ作りを行う企業がある事を証明し、受注を取り付けている。
国内有数の企業を相手に信用を積み重ねたカドリールは相手先ブランドの製造を受け持つ企業として業績を挙げている。当時では下請けと表現されたこの業態は、OEM(Original Equipment Manufacturer)と呼ぶ方々が多いが、これは他者ブランドの「生産」を受け持つ業態を指す。ところがカドリールの実際の業務は「設計やデザインの提案」も行っている事からODM(Original Design Manufacturing)とするのが正しい。つまりカドリールは各ブランドに合わせたデザインから製造までを任せられるほどの実力を有していたことを意味する。これがOEMであれば、デザインから設計、必要資料などが受注元から支給されるため、生産のみを受け持つ事になる。この両者の違いは文字1字では表せない程大きい。
OEM、ODMの最も難しい所は、相手先のブランドの都合でいつでも別の企業に取って代られるという点である。コストのメリット、製品のクオリティを維持しつつ、一度ブランドのイメージを毀損すれば選手交代を余儀なくされてしまう。実際にブランドの入れ代りよりもOEM、ODMを営む業者の入れ代りは激しい。そんな中でも着実に成果を上げた
カドリールは独立当初の目的である「自分の力でいい商品を作る」という情熱を持ち続け、紆余曲折、好調不調を乗り越えてついに自社オリジナルブランド「ランジェリーク」を誕生させた。平成23年(2011年)4月である。4人の踊りで始まった小さな会社は今や海外拠点を持つ企業として躍動を続けている。その舞は終わることなく今後も受け継がれていくだろう。
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