下着の歴史編

1章まとめ

株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。

今回で日本における下着の歴史1章は最後になります。1章では終戦を迎えた昭和20年(1945年)から昭和34年(1959年)までを見てきました。これまでの締めくくりとして、本ブログで取り上げた内容と補足を年次ごとに纏めます。


昭和20年(1945年) 終戦の年

戦争によって中断されていた下着の生産を再開する業者が現れる。生地を含む生活物資の多くは配給制。和服の再利用、闇市からの調達で下着を作り始める。

昭和21年(1946年) 復興の兆し

現在の株式会社ワコールとなる和江商事設立。当初は婦人向け洋装装身具の卸売りとして事業を開始。和江商事よりも先に同業種の青山商店(京都)、半沢商店(東京)などが事業を開始していた。

昭和22年(1947年) ニュールック発表とブラジャーの生産開始

クリスチャン・ディオールによる新しいデザインのファッションが流行。ニュールックを着るためにコルセットが必要になる。日本でも脚光を浴びコルセットが売れ始める。

中島商事株式会社(大阪)がブラジャーを作り始める。

昭和24年(1949年) ブラ・パット販売とランジェリーの誕生

スプリングで胸の膨らみを表現し、その上から布を被せたブラ・パットが流行。和江商事が専売権を取得し、全国へ売り始める。東京の百貨店へ売り込むが、後の「株式会社いずみ」の社長、小泉市朗氏と東京の半沢商店を通じての納入となる。

内外編物株式会社によって「ランジェリー」の研究開始

昭和25年(1950年) 四条河原の決戦

百貨店の売り場を手に入れる事が商売を軌道に乗せる有効な手段であったため、下着に関わる事業者はこぞって百貨店の売り場を争った。京都の高島屋の売り場を懸けて、青星社(旧、青山商店)と和江商事で争った。

昭和26年(1951年) 統制解除と繊維業界の特需

7月に繊維製品の統制は全面的に解除される。レーヨン織物のスリップが誕生しランジェリーの種類が増える。東洋レーヨン(現、東レ)が「ナイロン」の生産を本格的に開始

朝鮮戦争の影響で繊維・紡績など繊維業が好景気に沸く。「織機をガチャっと動かせが万の金が手に入る」という意味の「ガチャ万景気」とも呼ばれる。

昭和27年(1952年) 実演販売と下着輸出

阪急百貨店にて「下着ショー」開催、これを機に下着事業者の「下着ショー」が次々に催され下着の需要が喚起される。

アメリカのエクスキュージット社、ベスト・フォーム社、メイドン・フォーム社が日本を生産拠点とした輸出下着の生産を開始する。

昭和28年(1953年) 下着の黒船と柔道のベルト

当時アメリカ大手企業のラバブル・ブラジャーとエクスキュージット社が日本市場を獲得するために東京に事務所設立。両社の販売契約を取り付けたのは和江商事株式会社(後のワコール)であった。

日本人は冬には和服を着るため下着が売れなくなった。秋冬に洋服を着てもらうべく「ジュードー・サンチュール」を発売、大ヒット。年間通して洋服を着る文化へシフトしていく。

昭和29年(1954年) ランジェリー本格化とブラサイズの現代化

レーヨントリコットやナイロントリコットを使用したスリップの生産が本格化する。

カップサイズとアンダーサイズを区別したサイズ管理が導入され始める。

昭和30年(1955年) 異色の下着と新繊維

鴨居羊子によって小さなパンティの意である「スキャンティ」が発表される。7色で展開され、毎日違う色の下着を着用する事を促すように、各曜日の刺繍が入っていた。

繊維一本一本が丸い旭化成の新繊維ベンベルグ(キュプラ)の編み機が発売される。

昭和31年(1956年) 市場の目が厳しくなる

腹部を押えるウエストニッパーを発売するも、健康に悪影響だとする声が上がる。腹部の細さではなく臀部を強調する形のカンカンペチコート(パニエ)を提案、大ヒット。

昭和32年(1957年) 新たな市場

ダイエーやイトーヨーカドーなどのスーパーマーケットが台頭する。セルフサービスを取り入れ、価格を下げて大量に売る販売形態は主婦の味方となる。スーパーでは下着を扱う店も登場し、安く売れる下着を作る事で販売枚数と下着の普及が大きく拡大、下着ブームとなる。

昭和33年(1958年) 合成繊維の浸透

帝人株式会社と東洋レーヨンが「テトロン(ポリエステル)」の量産を開始。合成繊維が急速に需要を拡大。テトロンとは、帝人(テイジン)の「テ」と東洋(トウヨウ)の「ト」から取り、ナイロンのような繊維という事で名付けられた。

1章では下着の誕生から一般への普及を見ることが出来た。当時下着の存在自体が珍しいという事と、和服と洋服が入り混じっていた文化的背景など、下着に関しては大いに受け入れられたというよりは、下着を広めようとする人たちが努力の末に、その必要性を呼び起こしたという方が正しい印象を受けた。本ブログ2章で明らかにしていくが、これまでに取り上げた下着は現代の下着と比べ決定的に足りない要点が存在し、その点を補完し下着は黄金期を迎える事となる。がしかし下着の誕生からブームが訪れたと言われた程までに広めたその功績の上に現在の下着が成り立っている事を忘れてはならない。2章へ続く。

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