下着の歴史編

1章8話. 下着の黒船と孫子の兵法

株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。

衣類に関わらず海外のブランドには、所有する満足感やステータス、または実用性に至るまで沢山の魅力があります。利用者にとっては国内の商品だけでなく、世界中の商品の中から選択する喜びがある一方で、提供者は自らの市場を守る戦いを覚悟しなくてはいけません。今回は下着の黎明期において業界に押し寄せた海外ブランドと対峙した国内企業を見ていきましょう。


日本で一部の縫製工場がアメリカ向け輸出下着を生産し始めてからおよそ1年後の昭和28年(1953年)8月頃、アメリカのラバブル・ブラジャー社(以下ラバブル社)が日本市場への進出を計画し東京事務所を開設していた。日本国内の下着文化は、ようやくブラジャーやコルセットが一般に普及しようとする頃であり、製造者にとってもその形やパフォーマンスについては、まだまだ未熟で霞を掴むようなものであった。対するアメリカの下着は、年間1500億円以上の規模で展開され大量生産方式や最新鋭の機器等を有しており、洗練された下着メーカーが本格的に押し寄せれば、日本の下着事業者はあっという間にその波に飲み込まれてしまう。日本に対して一度に数千ダースという大量の輸出下着のオーダーを発注してくれていた時は非常に良いお客様であるが、同じ市場を争う商売敵になろうというのである。これは下着業界にとっての黒船来航であり、この時に海外企業が日本市場を席巻していれば現在の日本下着は全く違う物になっていたであろう。

ラバブル社の日本進出は極秘裏に進められていたが、東京の人形町に事務所を置いていた和江商事(後のワコール)に伝わり、この一報が京都本社に届くと社長の塚本氏はすぐに東京新川のラバブル社へ向かった。ラバブル社は自社製品の販売を委託できる契約先を探しており、敵対姿勢を覚悟していた和江商事の予想に反し意外にあっさりと業務提携を持ち掛けてきた。がしかし商談を進める内に「独占契約の代わりに保証金100万円(現在の数億円)を和江商事がラバブル社へ納める」という厳しい条件が突き付けられた。強気な契約内容は日本企業の信用を低く見積もっている事は明らかであったが、和江商事は数日の内に自己資本の4分の1程に相当する保証金を納め独占契約を結んでいる。もしこの機を逃し他社との提携が進めば和江商事の将来が危ぶまれる、またラバブル社が展開するリングレットブラ(カップ部分にリング状のステッチを入れたブラジャー)の商品の魅力もあり、半ば強引に契約を結んだ。契約締結後にラバブル社の工場を見せてもらうと、そこには文字通り最先端の機器が並んでいた。日本で熟練の縫製技術者を要する工程が、未経験者でもこなせる程の設備で、工場の規模は40坪程でさほど大きくないにも関わらず、生産能力は自社と比べ何倍も効率的であり、仮に保証金が全て飛んだとしても見る価値がある設備であった。この提携は和江商事に更なる飛躍を約束するものであったかのように思えたのだが、新たな問題がすぐそこまで迫っていた。黒船は一隻ではなかったのだ。

もう1社、日本市場を狙う企業は、日本へ輸出用下着を発注していたエクスキュージット・フォーム社(以下エクスキュージット社)で、ラバブル社のすぐ裏手に、ほぼ同時期に事務所を開設していた。和江商事としてはラバブル社との契約の話を進めるのが早すぎたかもしれない。そう思いつつも、海外企業の思うままに市場を占拠されるのは避けなければならない。ラバブル社とエクスキュージット社の両社を一手に引き受ける訳にはいかないだろうか?ラバブル社と和江商事に交わされた契約内容は細部まで取り決められていたが、他の外資との契約に関しては縛りが無かったため、エクスキュージット社と和江商事の提携はラバブル社との契約違反には当たらない。あとはエクスキュージット社が首を縦に振るか否か…互いに引けなくなるまで話を煮詰め、ギリギリまでラバブル社との話は伝えずにエクスキュージット社との契約の話を進めた事に嫌悪感を隠さなかったが、こちらは「保証金などいらない」「アメリカからモデルを派遣する」「すぐにでも契約して一刻も早く売り出そう」とむしろ和江商事を通じてラバブル社をシャットアウトするべく動き始めた。どこか一つでも間違えば和江商事もタダでは済まないことを覚悟の上、決死の思いで飛び込んだ海外企業とのタイアップはその後、予想を大きく超える成果を上げる。エクスキュージット社の幹部と共に関東の百貨店を回ってみると、それまでの門前払いが嘘であったかのように歓迎ムードで門戸が開かれ、戦勝国であり憧れの舶来品を扱うべく百貨店側から逆にアプローチを受け、海外メーカーとの契約によっていよいよ念願であった関東圏の百貨店の売り場への進出を果たしたのである。結局売り場にはエクスキュージット社の下着が並びアメリカから呼び寄せたモデルを起用して売り場は大いに活気づいた。

これを良しとしないのがラバブル社で、12月から製品を販売する契約に先んじて、エクスキュージット社の製品を並べる和江商事に怒鳴り込んでくるが契約には違反していない。さらにラバブル社の製品は12月から扱う契約だが、契約内容の解釈によって12月末でも構わないはずだと主張し、ラバブル社の商品引き取りのタイミングを年末まで引き延ばす作戦に出た。これを受け、痺れを切らしたラバブル社が和江商事との契約を破り、他の業者を通じて日本市場へ売り出してしまう。和江商事はそれを逃さず捕まえ、ラバブル社製品を差し押さえ違約金の取り立てに発展し、長期的に交渉を続ける事でラバブル社の日本進出を数年に渡って遅らせた。ここまでの出来事を振り返り驚くべきことは、ラバブル社との契約から同社の契約違反までが、たったの4カ月足らずのわずかな期間に凝縮されたものだということである。アメリカからやってきた下着メーカーのその後については、積極的に下着の宣伝を行い話題となったがアメリカンサイズの下着は日本人の体格に適さず、数年後に来る下着ブームの種だけを蒔いて、早い段階で撤退していった。アメリカから襲来した下着メーカーの情熱は強く、本国から援護も多用されたのだが、粘ることなく引き上げたのには理由がある。実は日本の市場に並んだエクスキュージット社の下着は日本で製造されていた。つまりは日本から輸出される予定の下着を一部出荷せずに日本市場に並べてみて、ダメなら引き揚げればよいという保険がかかっていたのだ。日本市場が未開拓に終わろうとも輸出用として大きな市場が滞りなくこれを吸収してくれるため、傷口は最小限に留める事ができる作戦が実行されていたのだ。

和江商事にとっては、優れた縫製機器とスタッフ、アメリカブランドを扱った経歴、日本人の体に合った下着販売の実績、関東圏の百貨店での売り場を手に入れ、一人勝ちとなったが、この一連の出来事を初めから見通していたのか、はたまた冷や汗交じりにそっと胸を撫でおろしたのかは、今では分からない。

2500年前に記された孫子の兵法には「疾きこと風の如く、静かなること林の如し、侵掠すること火の如し、動かざること山の如し、…影の如し、…雷の如し」風林火山が軍争篇に纏められている。海外から日本市場を狙う企業の話を聞きつけて風の如く、2社目との提携の話では既に結んだ他社との契約をギリギリまで伝えず林の如し、関東の百貨店にあっという間に攻め入り火の如し、契約違反はしていないと動かざること山の如し、当時の和江商事社長は孫子の兵法の内容を心得ていたのだろう、この話を振り返る度に孫子の兵法と重なる部分を探している。いや、もう一度孫子を学び直してからこの話を振り返るべきか。

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