株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
今回はブラジャーの開発に触れます。昭和初期にブラジャーの製造は確認できるのですが、選ばれた人向けで一般用ではありませんでした。下着の黎明期となる昭和20年以降は洋装も一般化され下着が普及していく中でブラジャーへの挑戦は如何なるものだったのでしょうか?今回はいくつかの企業のブラジャーにまつわるエピソードを見ていきましょう。
中島商事株式会社 後に株式会社ニュールック
クリスチャン・ディオールによって発表され、当時のファッションを席巻した8の字のラインが特徴の「ニュールック」にあやかって会社名を「ニュールック」に変更。当時ではかなり攻めた社名に変更した中島商事は、昭和22年(1947年)にブラジャーの製造を開始しており、他の企業と比べても早い取り組みである。完成した商品は大阪大丸にて1枚350円で扱われた。ブラジャーに使用する生地は独自で研究し自ら仕入れに走り回り、パーツ裁断も家族を巻き込んで実施する、加工だけは下請けの工場に出したが、加工賃が15銭~20銭程度であったために、百貨店での売り上げは丸儲けとなった。
和江商事株式会社 後に株式会社ワコール
洋装装身具に始まりブラ・パット、コルセットを扱うが卸売り業であったために相手のペースで展開される商売にジレンマを感じ、昭和24年(1949年)頃から自社で企画、デザイン、設計、縫製までを管理するメーカーとしてブラジャーを製造し始める。社長自ら型紙を作り、社長婦人をモデルに商品を作成、完成した記念すべき初めてのブラは、昔から作っていることを連想させるように101号と名前を付けられた。その後縫製を依頼した工場が型紙を流用してしまい自社の管理下の縫製工場の必要に迫られることになる。
半沢商店 後にカネボウシルクエレガンス(既に消滅)
戦前から下着の製造販売を行う数少ない企業、黎明期においてはコルセットが特に評判で関東の下着市場を独占しており、早くから自社工場を展開しブラジャーの開発を進める。当時の資材と縫製の組み合わせでは避けて通れないゴムの強度に懸念があった。例えばミシンで縫うとゴムが切れてしまう事や、使用すると必ずゴムから傷み始める問題等に一早く取り掛かる。結果開発されたのが段織ゴムという伸びない部分を一定間隔に設定した特別なゴムで、それによって安定した製品強度を実現し、昭和25年(1950年)頃に発表、以後10年程このアイデアが採用される。
高橋勉商店 後にラブロン株式会社(倒産後一部事業が再生)
創業は昭和14年(1937年)でかんざし等の頭飾品を扱う、主に年末年始が繁忙期で他の時期が閑散期となるため、商売の間を埋めるために昭和25年(1950年)頃下着事業に乗り出す。当時下着は春と夏にかけて売れ、冬は店の奥に片づけるという市場の販売リズムに合致した事業展開で順調に業績を上げる。しかしながら下着はもとより繊維商品の開発に関する知識は無いため、モデルなし、型紙なしの状態で製品を販売している。
いずれの企業のブラジャーにも共通していた点は、アンダーバストのサイズ展開はあるが、カップの大きさは単一で同じ大きさという事だ。そのサイズ表記もS,M,L表示、インチ表示、センチ表示が混在している。繊維製品に関する統制は昭和26年までは続くが、モノが無く、作れば売れた時代に助けられ下着は洋装の普及と共に増加する。下着の中でも最も難しいとされるブラジャーへの挑戦はこのように始まり、関わったすべての企業がそれぞれの方法で研究や開発を進めてゆく、それは今現在も尚進行中である。
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