株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
本章1話で取り上げたコルセットは日本の下着の黎明期の理解において外すことの出来ない存在です。当時のファッションを追いかけたユーザーに対してはもちろんのこと、作れば作る分売れたという販売する側に対してもよい商品であったことは間違いありません。当時仕入れ業者はコルセットを手に入れるために必死でした。今回はコルセットを仕入れるために一役買ったブラ・パット、それらを扱った事業者について見ていきましょう。
昭和21年(1946年)7月、京都市中京区二条通東洞院に、ある復員兵が商事会社を設立した。扱う商品は模造真珠のネックレス、竹のボタン、ブローチ、革財布、ハンドバックなどで、婦人向け洋装装身具の卸商として、小売店、化粧品店に売り込んでいく。当時戦争被害の少なかった京都では、装身具などが流行する兆しを見せており、同じような商品を扱う「青山商店」がいち早く事業を展開する中後を追うように参入した。既存の業者が扱わない商品を求めて、山梨の水晶や、埼玉のアクセサリー、兵庫の繊維雑貨を仕入れ少しずつ商売の規模を拡張していくが、多少の無理も生じてくる。薄利多売、人手不足からくる経営難から脱するために市場調査を開始すると、アメリカのファッション通販カタログが目に留まる、調査を進めるとブラジャーやコルセットなど、どうやら女性用下着が年間1500億円から2000億円という規模で展開されており非常に大きな市場らしい、大いに期待を持てる商材だという結論に達する。それまで扱っていた装身具については一抹の不安もあった、どうしても流行を追いかけるため、それが去った後の在庫は誰にとっても不用な物と化す、安定して売れる商品を扱わなければこの商売の末路は悲惨なものになるだろう。既に社員を抱え商圏は北海道から鹿児島まで達していた。給与の遅配も発生し眠れない夜が続く、将来は繊維商品を主力商品として展開していこうと決めた昭和24年(1949年)の初夏に東京の業者がブラジャーを売り込んできた。渡りに船という事ですぐに仕入れ、アッという間に売り切ってしまう、これまでにも多くの装身具を扱っていた経験から販売については自信があったのだ。やはり市場調査と推察は正しい、すぐに追加発注を行うが商品がいつまで経っても届かない、戦後間もない頃は流通も不安定なためよくある話だった。これで将来が少し明るく見えるはずだったという期待もむなしく肩を落としていた矢先に起死回生の出来事が起こる。
初めてブラジャーを扱ってから間もなく、「大宝物産」の安田武夫が、蚊取線香状のスプリングに布を被せ、饅頭のような形をした「ブラ・パット」なるものを持ち込んできた。『ニセのおっぱいですね』直前にブラジャーを扱っているだけにその用途はすぐに理解できた。仕入れ始めこそ得意先から賛否両論あったが、安田氏から『実は、青山さんにも売ってるんです』と聞かされた、戦後いち早く装身具を扱っていたあの「青山商店」である。この商売を始めた頃から『もう青山さんの所にお世話になってるんで…』と新規営業先で門前払いされ幾度となく辛酸をなめた。先を越される前にこちらが手を打つ必要がある、まずは売れるかどうか確かめなければならない、そう決めるとブラ・パットを持ち夜行列車に乗り一路東京へ向かった。それまでに日本全国に商圏を広げていたのだが東京だけは避けていた、日本の都でファッションの隆盛も地方とはレベルが違うと聞いている、自社の商品が通用するとは思っていなかったのだ。列車に揺られた翌朝、銀座へ向かいブラ・パットを扱ってくれそうな店に飛び込んで予想以上の成果を上げる。その道すがら銀座の交差点で見覚えのある営業マンを見つける、「青山商店」も同日東京へ営業に来ていた、商談用荷物の中はブラ・パットであろう。鉢合わせを避けてこちらは一旦銀座を離れ浅草へ移りこちらでも成果は上々だった。その日の夜行で京都へ戻り大宝商店と契約を取り付け、「青山商店」の先を制する事ができた。
自社が拡大した全国の商圏に加えて新たに東京の市場を取り込むことが出来ると確信した次は、先手必勝の勢いそのままに百貨店へ攻め込む、当時百貨店と取引できるという事は大きな信用に繋がる。「三越」にブラ・パットを持ち込んだが直接取引には至らず、京都の業者と東京の「半沢商店」を経由して納品する形になった、すこし残念ではあったが一先ず百貨店への実績を作ることができた。さて、この「半沢商店」だが、大正から続く老舗で戦前からコルセットを販売し、この頃には関東の市場を独占し東京の百貨店にコルセットを展示するなど評判を得ている。
翌年の昭和25年(1950年)にむけて、突然ブラ・パットが売れなくなってくる、注文が入らないのだ。現代では信じがたい現象ではあるが、寒くなる時期には下着を付けずに洋服ではなく防寒性に優れると思われていた和服を着る人が圧倒的に多く、装身具からブラ・パットを主力にしていた経営は一気に赤字転落、2月には倒産危機となった。なんとか商売を繋ぐために東京の「半沢商店」へ直接注文を取りにお伺いをたてる、当然玉砕覚悟の上である。すると「ちょうどよかった」と予想を覆し追加のオーダーを貰うことができた。それは何故か。こちらの心配を他所に春が近づきまた洋装が戻ってくるからという理由であった。少し肩透かし感も否めないが「半沢商店」に直接伺った収穫はオーダーを受ける以外にもあった、コルセットを目の前で見る事が出来たのだ。しかもただのコルセットではなく、品質が良いと評判で百貨店を始め関東の下着市場を独占する「半沢商店」のコルセットだ。後日ブラ・パットを納品する際には「ブラ・パットのお代は金銭ではなくコルセットを頂きたい」と申し出て「半沢商店」のコルセットを仕入れる事に成功し、これをきっかけに、ブラ・パットを収めてコルセットを仕入れる商流を構築し、業績を上げていくのだが、この販売については「半沢商店」のスワンマークのラベルを自社で一旦剥がして、自社のクロバーマークのラベルに付け替えて自社製品として売り出している、なんともこれは…現代ではかなりグレーな立ち回りである。
ともあれこの商戦はうまくいった、ブラ・パットは「半沢商店」だけに限らず日本全国に売り先があったし、コルセットと合わせて売りまくった。しかしながら「半沢商店」のコルセットは既に人気のためいつ送られてくるか分からない、それならばという事で直接取りに東京へ向かう、朝から夕方まで張り付き頭を下げて分けてもらう生活を1週間に1度のペースで1年以上続けた。京都―東京間を夜行で片道10時間ほどかかる、現在の時間距離にして東京―ロサンゼルス程の長旅である、おまけに日帰りで0泊3日の旅程を強行した。
「半沢商店」にコルセットを取りに行ったある日「もう御社のブラ・パットは結構です」と言われてしまう。半沢商店が新しくラテックス(ゴム)製のパットを扱い始めたのであった。価格はこれまでのブラ・パットの5倍もしたが、感触も良く装着感も優れていたため、スプリング製の饅頭型ブラ・パットは登場から1年程で新製品に取って代られた。新しく登場したラテックス製のブラ・パットは品質バラつきがあり、一旦倉庫で全て並べて固めのもの、柔らかめのものを触って確かめ感触の近しい物同士をペアにして再度袋詰めする作業が必須となった。
さて、コルセットの仕入れだけが残ったその商事会社だが、粘り強く前衛的な事業を続けその後も大きく成長し、下着業界を牽引する存在となった。若き日に戦地へ送り込まれ配属先の部隊は55名、終戦を知った時にはその部隊は3名になっていた。5年7か月振りに目にした祖国は大きく変わっておりアメリカ兵の相手をする悲しき日本女性を見て『あんなふうにしてはいけない、日本女性を美しく…』と心に誓い洋装装身具を扱う会社を作ったその復員兵の名は塚本幸一、会社名を和江(わこう)商事、現在の株式会社ワコールである。1年程の短命に終わったスプリング製ブラ・パットは今もワコール本社の1階に大切に展示されている。
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