下着の歴史編

1章1話.ウエストを締め付ける美、コルセット

株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。

0章では日本で下着が広く一般に普及する以前の話を扱いましたが、1章では日本における下着の黎明期を紐解いてみましょう。昭和20年(1945年)の終戦以降、それまで塞き止められる傾向にあった欧米文化が一気に流れ込み、下着に関しては洋服の需要が高まる事によって、その必要性が注目され始め、文字通りそれまでの装いが大きく変わります。現在では技術の進歩や求められる機能が変化し馴染みの薄くなった下着もありますが、その進化の過程を捉えるために下着のルーツ等を探ります。第1話目に取り上げるのは「コルセット」です。それでは見ていきましょう。


コルセットはウエストの括れ(くびれ)を強調させるための補正下着であり、欧州では17世紀頃からイギリスでその使用が確認できる。着用方法については胴体部を覆うように巻き付け、さらに背面に通された紐を縛って (靴紐のイメージ)体を絞る、これは体形を整える補整下着の起源となる。その後ゴムの開発などで製品に伸縮性を持たせる事でステップイン(履いて着用する)が基本的なデザインとなる。コルセットにはウエストにくびれを作るだけでなく、それによってバストやヒップ部分を強調する目的があった。

コルセットイメージ 作画:株式会社コ・ラボ

日本では昭和初期よりブラジャーとコルセットが生産されていたが、戦後間もない頃にはブラジャーよりも簡素な作りで、なんとか資材を揃える事が出来たコルセットの生産が過去に実績のある業者、または新規参入業者によって再開された。とはいえ物のない時代にコルセットの需要などあったのか?と聞きたくなるが、それは昭和22年(1947年)頃に発表されたクリスチャン・ディオール(以下ディオール)の「ニュールック(コロールがオリジナルネーム)」によってもたらされた。ウエストを細く形作ったラインから、生地をたっぷり使用したフレアスカート、肩にはパットが入り、8の字に見えるシルエットは女性の美しさを存分に引き出し、世界的にみられた戦時中の統制による布の使用制限からの解放を表現した。贅沢で優雅な「ニュールック」は発表の翌年に日本に上陸し人気を博していくのであるが、その際にくびれを形作るのに必要とされたのがコルセットであった。

ディオールはその後も、バーティカルライン、オーバルライン、チューリップライン、Hライン、Aライン等、現在にも繋がるラインナップをシーズン毎に発表し、短い流行のサイクルを構築した。私達が毎年毎シーズン異なるファッションを楽しめるのはディオールの功績がとても大きい。そして自ら設定した短いサイクルを体現するかのように「ニュールック」の発表から11年後に心臓発作で倒れ、後継者には後に一流ブランドを立ち上げるイブ・サンローラン(以下サンローラン)を指名して52歳という若さで急逝してしまう。

「ニュールック」という呼び名は新しい時代の喜びを込めて第三者によって付けられたが、ディオールとサンローランは「伝統を守った」と称されている事から、コルセットが必要になる8の字のラインについては、新しいものではなく「復刻・復活」させたという理解が正しい。0章で見たように世界各地で争いが起き、女性達が働き手として必ずしも望んだ形で無い社会進出を進めた1900年代初期にポール・ポワレやココ・シャネル(以下シャネル)によって一度コルセットは過去のものとなっている。体を拘束する形で美を追求するためには優雅な暮らしを必要とするが、いざ働きに出て強く生きる事を迫られるシーンにおいて実用的とは言えず、そこへフィットしたシャネルの提案によって、自立し主体的で自然な女性らしさを手に入れるためコルセットから離れていった。「ニュールック」登場後はコルセットの普及など許せなかった事もあり、シャネルは70歳になってから再度第一線に復帰し生涯を通じて機能性を重視したデザイナーとして活躍した。

ディオール旋風によって再度光が当たるコルセットは、やはり締め付ける要素が足枷となっており、日本女性達には苦しさも目立つ。汗をかくのを出来るだけ抑えるために水分補給を避け、内臓を圧迫するため食事もままならず、家に帰ると真っ先にコルセットを外す、補整機能を保つための骨材(ボーンという)が体に刺さり脱衣後も跡が残る事は織り込み済みでの着用となったが、体を酷使するだけの価値と美学がそのおしゃれにはあったということであろう。一方生産者もかなりの苦戦を強いられている、当時の主流は腹部に巻きつけて紐で縛るタイプのものではなく、前面と背面で伸びない素材(主に布帛生地)と脇部分で伸縮素材(主にゴム)を組み合わせ、履いて着用できる仕様であり、「ニュールック」が日本に発表された昭和23年(1948年)は繊維製品に対する統制が残っていたため、コルセットを作る材料の手配にとにかく手を焼いた。生地を扱う店に再開の目途が立たないだけでなく、食うに困る人達が路頭に迷う、そこでスポットが当たるのが「ヤミ市」という存在だ。軍隊からの横流し、GHQの払い下げ品が集まり、中にはゾッとする品もあったというが、そこへ行けば衣・食に関わる大体のモノは揃うという事で多くの人が集まった。それでも足りない場合は和服の一部を流用し、弔いに使用する棺の装飾に手をかけ完成させ、商品としてのそれを見れば何を使っているのか想像は容易だったが、作ればすぐに売り切れてしまっている程に人気であった。そしてしばらくの間日本中に押し寄せたコルセットは、いつの間にかその流行の波と共に過ぎ去ってしまう。

日本で普及したコルセットイメージ 作画:株式会社コ・ラボ

コルセットをはじめ、これから登場してくる下着の発展はファッションの隆盛と共にある。そしてそれはファッションの移り変わりによって然るべき下着が選ばれていく、もしくはファッションの後を追うように開発が進む、その因果関係は今後も切っても切り離せないであろう。例えば、タイトなシルエットの衣類が流行れば、下着の加飾は控えめになり、ミニスカートが流行れば丈の長い下着は選択されなくなる。コルセットを例にあげると、「ニュールック」を実現するために必要とされたのが「コルセット」なのであり、「コルセット」が「ニュールック」を流行らせたのではない。この視点を持って下着の歴史を見ると、下着がファッションをリードして流行を牽引する事例はないといっても過言ではない。私達に出来る事は流行が来た時に既にそこに居合わせるか、新たな提案で寄り添う事である。それを見誤ってしまうような事があれば、下着に従事する私達自身を締め付ける事になるかもしれない。

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