株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
日本女性が初めて洋装に出会った明治から振り返ってきた0章もついに昭和に入ります。婦人下着と言えば、今や生活に欠かすことの出来ないものとなり、ブラジャーやショーツ、ガードル等を直ぐに思い浮かべる事ができますが、当時は「洋装の下着」というと、西洋の服を着るときの専用のモノのような位置づけで認知されていました。今回は、日本で製造された下着に触れる事が出来ます。それでは見ていきましょう。
昭和4年頃(1929年) その後の生活に溶け込み、体を整え支え続ける下着の国内生産という歴史的な出来事を迎える。本ブログ、0章で振り返ってきた「洋装下着」はズロース、シュミーズ、バッスル等で、西洋からの輸入品に頼り、日本人用に開発されたものではなかった、また現代を生きる私達としては少し馴染みの薄いものである。アメリカでブラジャーに関する特許が申請されてからおよそ15年後、松岡錠一氏が知人に薦められ、アメリカから持ち帰られた数点の下着を参考にブラジャーとコルセットを製造しはじめる。「乳おさえ」「乳カバー」と呼びながら研究を始め、東京に縫製工場を設立し縫製、設計、試作を繰り返し販売に至った。現代の下着と比べれば、粗雑な出来上がりであったらしいが、生地一つにおいても伸縮素材などは存在せず、ミシンも工業用はおろか電力式のものはなく、人力で壊れやすいものであったことなど、下着開発に与えられていた選択肢は至極狭い範囲に限られていた事は考慮されなければならない。またブラジャーを例に考えると、アンダー寸法とバストトップ寸法の差を区別し、乳房部、胴体部をそれぞれ別に作り縫い合わせた立体物は製作者を混乱させたに違いない。現代においても着用感や補整感については未だに議論を呼び、製品としての下着を作る私達の様な専門家でも度々頭を抱える。そんな難解で新規性の高い商材に初めて挑む業者は開発以外にも時代感というハードルを越えなければならない。日本における洋装下着の普及率は昭和に入っても低い水準のまま和服が大半を占め、普段から洋服を着る人、つまり下着が必要となる人は女優、もしくは富裕層のご婦人が中心で和服が大半の一般女性には必要なものではなかったため、そもそもなぜ下着が必要なのかを説明するのに四苦八苦したことが伝承されている。
前途多難な下着の普及は日本製のブラジャー・コルセットが販売されて間もない昭和7年(1932年)の12月、東京・日本橋の白木屋の火事によって一気に高まった説がある。白木屋とは8階建てでエレベーターが完備されていた大きな百貨店で現在の東急百貨店日本橋店となって現在に至る。この火災はクリスマスの飾りつけの電球の故障から引火し、出火元となった4階以上を3時間で焼き尽くした。逃げ遅れた人の中には消防隊のロープや売り場にあった布カーテンを結んでそれを命綱代わりに脱出を試みたが、ズロースを着用していなかった女性達はめくれ上がる裾から露わになる足元を気にして誤って手を放し転落死してしまったため、「こんな恥ずかしい思いをしないように下着をつけるべき」と呼びかけられた。後にズロースの着用が広まったのはこんな悲しい事件に起因するというのがファッションまたは下着業界では通説となっている。
がしかしこの説には別の見解もある。内容は以下の通り、逃げ遅れた女性達が「転落死」したとされている記録があるが、実際には2階くらいの高さまで命綱で降りてきて、恥ずかしさから手を放し「転落負傷」が正しく、転落死した原因がズロースを履いていないからとするのは間違いある。またズロースの普及についても、白木屋専務が以後女性店員にズロースを着用させたのは新聞で確認できるが、実際に火災から1年半後(1934年)の調査では、ズロースの普及率は10%前後であり、白木屋火災をきっかけに下着が普及したという事実がない、というものだ。少し話を前に戻し、松岡錠一氏によって生産された日本製の下着についても、画像、実物、着用者の感想等、資料が残っていないため、それが実際に粗雑であったかどうかを確かめる事はできない。歴史の核となる部分はその他の事柄から「こうであったのではないか?」という結論に達することが多い。白木屋の火災の後には専務がその必要性を訴え、女性店員にズロースを着用させたが、それは新しい商材を売るための理由付けとして火災事故を利用していたのかもしれない。衣類を多く扱っていた当時の百貨店にとって、なぜ下着が必要なのかを説明するための良い宣伝になったのだとしても、それを確かめる事はできない。したたかで戦略的な一面があったのか否か、真理・真相は当事者のみぞ知る。
信じるか信じないかはアナタ次第。
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