株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
0章1話.では日本女性初の留学生達に焦点を当てて下着の歴史を追いかけました。下着についての記録にたどり着くには難しく、予想の範囲を脱しませんが、そのルーツを探る事で、これまでとこれからに変化を与えてくれるでしょう。今回は、西洋文化に入り込んで生活した留学生達が帰国した日本のその後を見てみましょう。
明治16年(1883年)、東京の日比谷に鹿鳴館(ろくめいかん)がその姿を現す。岩倉使節団の出港から12年過ぎても尚、欧米との不平等条約改正には至っておらず、欧米列強の仲間入りは当時の日本として最重要課題であり、文明開化をアピールする場として時の外務卿(現在の外務大臣)井上馨によって建設された。
主な用途は、外国公使やその婦人、令嬢などを招き、舞踏会を開く事であり、バーやビリヤード等の設置で飾られ、当時最も西洋に染まっていたといえる。日本からの参加はごく一部の位の高い人に限られていたが、ここで登場するのが、当時西洋で流行していたバッスルドレスとクリノリンドレスである。鹿鳴館スタイルと呼ばれ、日本から参加した貴婦人達も、その艶やかなドレスに身を包み、来る日も来る日も外国公使等を相手に踊り続けた。この頃、バッスル以外にもコルセット、ペチコート、ブラジャーとコルセットを一体化したような西洋下着が日本国内で確認されている。この頃から日本国内の女性は衣類、或いは下着を用いて、体のラインを整える事を知るようになり、胸を高くし、ウエストを細く絞り、腰を膨らませたシルエットが艶やかで、輝きを放ち、美しいという認知を生んだ。下着の歴史という観点で見れば、日本の文化に大きな変化をもたらし、輝かしく映る文明開化初期である一方で、貴婦人達にとっては、初めて見るドレスを身に纏い、踊りを真似る事に必死であった。体を締め付け重い衣装に苦しめられながら文明開化のためにと笑顔を振りまいた本人たちの意に反して、日を追うごとに欧米からの評価を落としていく。いわゆるお金持ちの婦人ではダメだということで、日本の踊りのプロである芸妓を投入するも、欧米の参加者からは「踊りが異様でおかしい」と笑われたらしい。その中で可憐に舞い、英語、仏語、独語を操り外国公使との話に華を咲かせる日本人がいた。0章1話.に登場する「山川捨松(既に結婚して大山の姓となっている)」である。
見事にドレスを着こなし、踊りも本格的な彼女は「鹿鳴館の華」と呼ばれた。その後も活躍を続け、共に留学をした、津田梅子、瓜生繁子らと日本女性の教育に情熱を注ぎ続けた。先進国で育ったために日本に馴染むことが難しく「アメリカさん」と揶揄された事もある、一般人として日本で育っていた方が幸せだったと思う事もあったかもしれない。多難の人生を送る捨松にとっては居心地の良い場所だったかもしれないが、鹿鳴館の一歩外は文明開化には遠い後進国。多額の国費を費やし、貧富の差が拡大し一部からは非難の声も上がる。館内がどれほど彩られていようとも、外国公使は日本全体を見ており、条約改正に失敗した井上馨と共に鹿鳴館は7年間の役目を終え、現在ではその姿を実際に見る事はできない。当時の一般女性は着物の内側に腰巻(薄めの布を腰に巻くだけ)が普通の装いで、鹿鳴館の宴に参加した人々もまた普段着は着物であった。下着の具体的な発展についてはまだ未来の話となる。
日本の下着の歴史を探り明治を学び直してみると、苦境や失笑に晒されながら、それでも未来の日本のために文明開化を追いかけた貴婦人達や、留学を通して強く成長し活躍した女性達の姿があった。その功績は100年以上経過した今も確かに輝いている、艶やかに。
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