株式会社コ・ラボの企業サイトブログ「下着の歴史編」にようこそ。本ブログでは日本の婦人下着の歴史について学んでいます。
日本の婦人下着の文化は平安時代から腰巻、湯文字など、巻きスカート状のものが使用されており、いわゆる「ノーパン・ノーブラ」の状態が長らく続きました。西洋で開発、発展を遂げてきたブラジャーやガードル、ショーツなどの婦人下着は日本においてどのような歴史を刻んできたのでしょうか?実はその歴史は意外にも浅く、昭和4年(1929年)頃からコルセットやブラジャーの製造・販売を確認できます。令和2年(2020年)現在ではまだ100年の歴史を持たないのですね。その具体的な発展は第2次世界大戦以降となりますが、本ブログの「0章」では、日本女性が西洋下着に出会った明治まで遡り、下着の黎明期までを纏めます。それでは見ていきましょう。
明治4年(1871年)11月、諸外国と交わされていた不平等な条約の改正を目論む、岩倉使節団の船に5名の女性が乗り込んだ。いや、5人の少女が乗せられたという方が正しいかもしれない。
- 上田てい(16歳) 後に上田悌子
- 津田むめ(6歳) 後に津田梅子
- 永井しげ(9歳) 後に瓜生繁子
- 山川捨松(11歳) 後に大山捨松
- 吉益りょう(14歳) 後に吉益亮子
彼女たちは日本女性で初めての留学生としてアメリカの地で10年間という期間を過ごす運命を受け入れて出港した。その内、上田、吉益の2名は1年経過せずに帰国しているが、比較的順応出来たであろう残りの3名が10年間の留学生活を終え帰国している。この留学を通して、ドレスを着ている写真が残っている事から、西洋服に身を包みながら海外で生活した初めての日本女性達という事は間違いない。また留学の際に当時の流行であるバッスルドレスやクリノリンドレスを着た経験もあるとすれば、外着の形を支えるための下着をつけて、その上にドレスを被せる形になるので、西洋服だけでなく、洋装下着を身に着け、西洋文化の中に生きた最初の日本女性達とすることが出来、その可能性は高いがそれを裏付ける資料にはたどり着けなかった。さて、ここに登場する津田むめ(梅子)は自らの意思で再度アメリカに留学し、多くを学んで帰国している。その後も一般女性の教育の重要性を訴え、後の「津田塾大学」の創設者となり、令和6年発行予定の新5,000円の肖像でその姿を見る事ができるようになる。
江戸時代から「外国の服は禁止」とされており、西洋服で外に出ようものなら斬り捨てられたという文化の中で、留学生より以前に女性達が密かに西洋服や洋装下着を楽しめる場所が日本のどこかに存在したかもしれないが、本ブログの「下着の歴史」では、日本女性初の留学生達を、西洋服と洋装下着の初めての着用者としておきたい。5名の留学生に関しては、当時希望者がなく出発の数週間前に決定し、明治維新の戊辰戦争下で「敗れた賊軍側」から人選されており、これは偶然なのかという疑問が残る。船に乗り込んだ本人達は、10年間という期間、生きて戻る保証はない、どのような扱いを受けるのかも不明、そもそも日本はその当時遅れた国と評価されているという条件をどのように感じていたのか?私達は、この留学生達が築いた色濃い日本の歴史の続きを生き、西洋化と共に女性の社会進出という恩恵を様々な形で受けている。婦人下着事業に関わる者は、この日本女性初の留学生を覚えておきたい。
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